ド地味生活

検索に10年くらい人生費やしたシステムコンポーザー。厄年。隠居系でみよんみよんしてるが細々とやっていく。

脳の同期で見るもの。Facebookタイムライン、Yahooリアルタイム検索、Feedly、はてブ、note

気が向くとnoteを書くこともある。

note.com

はてなブログとnote、違いってなんだろう?どう使おう?

と、惑いつつ、noteにも少しずつ滞在時間が増えている。

はてなブログでリンク挿入設定あったのとか忘れてた。突然クラッシュして書いたものが消えて撃沈回避なんかは特に大事。まとまった記事にしなくてもいい感じでハードル下げている感はある。

 

はてなブログとnoteと各SNSとコミュニティごとに毛色違うけど、

やっぱり儂は儂だろうな。

 

日々変わりゆく自分の足跡がどこに投下されるかは、テーマごとでざっくり分けているので、書評系ならブクログかなあとか、料理系なら象牙の塔かなあとか、方々に書き散らしている。

ハングアウトとかオンライン通話で過去にどこかで書き殴ったことをより明晰に感情をコントロールして語れる自分を発見した。

自分でもわかっているのかわかってないのか難解だったりモヤモヤしたりを書いてぶつけることで、書かれたテキストとモヤモヤを頭に持っている自分を切り分けて、客観化しやすくなるのって、文章をブラッシュアップして論述試験対策にもなるし、口頭試問対策にもなるんだろう。

 

思って書いて考えて、吟味して話す力。

ブログって発声練習なんだな。って問題意識とファーストアンサーを共有できた時、

再訪したページ。

このブログ名について - 発声練習

そして、連想したのが『ベロニカは死ぬことにした』のゼドカ。

試し読み可能↓。

https://bookmeter.com/books/570906?review_filter=netabare

p.43「狂うってどういうことなの?」からの、p.80ゼドカの「狂気とはね、自分の考えを伝える力がないことよ。」

からのくだり読んでて、

大学時代眺めた『留学生』ってそんな近い記述あったような…

ロッセール先生の授業で使ってたテキストだなーまでは思い出せるが、そこから先がうろ覚え。

儂は状況モニタリング能力は自信ない。 SEQ低め。

 

問いを持つこと、問いを立てることのその先についてで、問いを共有できる仲間・先達・後輩となら、グループ学習・グループディスカッション・グループ面接などグループものがものすごい苦手なコミュ障だけど、やりようがあるかもしれない、などと昨夜の西岡壱誠の逆転人生の聴いててふと思い浮かんだ。

入るには入ったがコミュニティに馴染めるかって問題は、リアルでもネットでも人が絡めば共通だもんね。

続・ひきこもり無双

それまで得てきた、頭で概念の積み木遊びをやる類の知識経験を一旦脇に置く。

仕切り直して、1から始める。

頭で考えるのを停止するから、胸や肚、腰、子宮、肌感覚で処理する。

蛮勇に陥らない気概、節度ある欲がどういうものか、身体にフィードバックが来る。

白か黒か、グレーゾーンか。頭で考えてたら白黒はっきりさせたがるし、無彩色のグラデーションの座標軸(x軸)でどの値か?みたいな理屈っぽさが、

良寛さんの書や西田幾多郎の書、掛け軸やふすま絵などの水墨画で色味を帯びた墨の色を知覚し、利休鼠など緑がかった灰色もあるのを目の当たりにし、仄かな香気漂う(たぶん、龍脳だろう)空間のしっとりと落ち着いた感じや風の流れ、明かり取りなど諸々がゆらゆら合わさって展開されるライフ・フィールドをまるこまんま全身で堪能する感覚に圧倒されるが、「ハロー、ワールド!」っていうより「唯今、東洋!」って感じだ。

目を瞑って、気を飛ばしてもいいし、やってこられてもいいし、その何モノかと対峙する。あるようでない、なさそうであるそのモノと、ここにいるようでいない、いないようでいてそこにある自分と。所を変え、時を変え、何度も何度も遭遇する。「やあ、また会ったね。見知らぬようじゃが、懐かしくもある」

やっておくべきは、思い出作り。

 

さて、国家的触穢にやあらむ、物忌みモード。

毒の名を五六七(忌むな)と、ふるべゆらゆらとふるべ。

さにあらば、「関ケ原」って呼ぼうぞ、と姉妹して語りき。

天下分け目なるゆえん。混乱のさなか、裏切り寝返りの兆し。

写経(書き写し型のインプット)もよきかな。

読経(音声でアウトプット)もよきかな。

法要(仏法のエッセンスのインスピレーション)もよきかな。

講会(原書講読のゆるい集まり、オンライン読書会含む)もよきかな。

詩歌管弦の遊び(インスピレーションが降臨しての変性意識状態)もよきかな。

村山修一の陰陽道のメモ書きを虫干しして、

清明に向けて心の準備をば。

ひきこもり無双

精進の道を進め。

放逸の道に逸れたら、さっさと軌道修正するのじゃ。

エポケー(判断停止)して吟味するのだ。

 

急に休校になって何したらいいかわからない子どもたちがいる。

彼ら彼女らは少し気がかりなことがある。

「こんなひきこもりニートみたいな生活して、

1か月くらいしてから週5出勤のまともな生活に戻れるのだろうか…?」と。

ちょっと寝坊もするだろう。外出禁止なら身体活動も少なめで夜までエネルギー有り余ってるから、ついつい夜更かしもしてしまうだろう。

 

朝、Youtubeでラジオ体操を流して、一緒に体操するだけでも一日のウォーミングアップになる。夏休みにやってたんだから、春にやってもいいだろう。

 

セミリタイアや定年退職、様々な人生上の困難などをきっかけに、

何の準備もなく引きこもり生活、外出御無理の御身体を生きる場合、

最も警戒すべきは、体力低下。特に、足腰が弱ることだと思ってる。

Sedentary Lifestyle=体をほとんど動かさない生活は、

洋の東西を問わず体を酷使する労働をしなくて済む身分の高い者の暮らし方のように思われポジティブに受け取られていたが、動かさなすぎるのも問題だ!と最近強調されてきている様子。

なぜか日本は年を取ってもお百度を踏んだり、階段がやたら多い聖地の参拝をしたりと生活にハードな運動要素が組み込まれていた。バリアフリーの真逆のバリア有りーどころかバリアしかない全国各地を巡って土地の気配を身体に刻み込むうちに、仙人仙女のように老いて衰えずの理想みたいなものがあると感じた。

身体が弱いとメンタルも不安定になる。

もっと強い体に生まれてりゃ、ああいう思想にはならなかっただろうな、と思う哲学者がいくつか浮かぶ。

食べるために生きるか、生きるために食べるか論争があるが、哲学者は後者だ。

ただ生きるより良く生きることを望むなら、

ただ食べるより美味しく食べることを考えてみるのも悪くない。

食卓の快楽(設えや音楽などでの雰囲気づくり、風味、一緒に食べる相手、食事が美味しくなるような愉快な話題)も重視する。

厄年行ったら、然もないものにハマってる。かにかまカニ酢をつけて食べるとか。

日々食べるものを吟味する。日々インプットするものを吟味する。

 

学校・大学や会社で必要だから役に立つからって言われてやってる勉強・仕事って、

本当に自分の人生で糧になる、糧にできるような中身があるか?って今から10年前に問いを持って、その時の自分の答えがNOだったから、

一旦忘却して、今まで身に着けてきたペーパーテスト用のお勉強は無かったものとしたっけ。

つづく。

コロナ疲れと聞いて『デカメロン』的やり過ごし方があったな、と

なんとなく自粛ムードで楽しいこと喰ってる感があるのが東日本大震災直後を思い出す。

リーマンショックのとき、どうだったっけ?って参照したくなる経済状況。

親に聞いたら、一斉にひきこもるようにって休校は体験したことない、という新しさ。

楽しくひきこもるにはコツがある。

脳内麻薬調整で気分の良さが持続する時間を持つのと、

ただ可処分時間があるのは違う。

デカメロン』は気晴らしの一例ともいえる。

https://booklog.jp/item/1/4309206042?page=1&perpage=10&rating=0&is_read_more=1&sort=1

 

読書三余の冬、雨、夜。

突然降ってきた暇な時間に対して、時間投資家としての自分はいつ何をどのくらいやるか?答えを用意していた人、即答えが見つかる人にはチャンスが巡ってきたんだな、と兆しを感じる。

新暦の雛祭りも近く、陽気が出てきたものの、ひきこもる生活なら冬と過ごし方が近くなるので、身体にとっては冬が伸びたように思うだろう。

3月の節目は3/5啓蟄、3/10満月、春彼岸。

クロッカスが咲いて、鳥の鳴き声に聞き耳を立てて、何の鳥かなと検索する。イカルが近年になって気に入った。

https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1381.html

今では夏の知らせだなと感じるアカショウビンの鳴き声は、初めて聞いた時には誰かふざけて効果音仕掛けたのか?など、まさか鳥だと思わなかった。

https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1376.html

 

源氏物語』の若菜下に、「女は春をあはれぶと」と引いていて、男は秋に感じるものがあるようで、これはホルモンの季節変動の話にかかわるもののようにも解読できる。ぼうっとぼやけた春の夕暮れに呂の曲に意識を向けるのも趣がある過ごし方だろう。

星を見ながらそらし目を覚え、これは画面に対して斜に構えることでガン見集中し過ぎで疲労するのを防ぐ防衛術に転用できると気づいたのだった。

リモート看取り

リモートワークの話題も年単位での実践の知見がたまってきていて、

ネタがないわけではないが、まだ言語化できないでいる。

 

ビデオ通話ができるコミュニケーションアプリが乱立していて、

どのアプリをダウンロードしてアカウントを作ったかも曖昧な記憶になり、

登録済みのメールアドレスもどれがどれやらわからなくなり、

パスワードも忘れて入れない死蔵アカウントは無数にあるだろう。

年賀状やアプリの通話などで現在有効な連絡先の同期もしつつ、旧交を温めつつして

新暦の年末年始はちょっとした機会だなあ~と、しみじみ。

GWやお盆、次の年末年始に向けてアカウントを見直しておこうと、

節分に向けてはアカウント状況の全出しから何から、

古くて使わない物は削除し、まだ使えそうなものは使いこなせるかのお試し期間を設ける。

 

冬の終わりは生き物の新旧交代の季節なのか、お葬式も多い。

実家の老猫が倒れてピクピクし続けて終末期を迎えた。

見た目とは裏腹にドスの効いた鳴き声の御婆猫で、孫猫も婆乳やって娘猫と共同で育てた女系家族の女王として君臨していた。エリザベスカラーはしなかったけど。

ビデオ通話で画面越しに最後の挨拶をした。

声をかけ画面の猫を撫でながら、人間の終末期のときと同じようなもんだと思った。

下顎呼吸の呼吸音、寝たきりで思うように動けなくなるなどの点が。

老婆の娘猫、孫娘猫たちは傍らでウロウロオロオロしていて、初めて目の当たりにする死にどうしていいかわからないようだ。

症状をスマホで検索したら動物のお医者さんに連れてって延命治療を受けさせましょう的なアドバイスがヒット。ペットのエンディングノートは特に書いてなかったけど、老衰だから延命治療は望まないという基本方針はままちゃんのときに固まった。

もはや生きて残される者たちが手を加えようとしてやれることは何もない。

もう少しで死にゆこうというものに対して、

ただ、楽になるように、楽にしてくれと、

この世で生きとし生ける限りあるものを超えた限りのないものに祈る。

所詮人の子の手ではどうにもできないものは神仏マターとして分業する。

 

人間の看取りのときに、近代看護以前の世界に思いを馳せた。

宗教色を帯びた看護のあり方という切り口で、臨終行儀のアイディアを検索した。

『看病用心鈔』『臨終之用意』『験者加持作法』など

看護の心得の書物があることを知り、看護史the history of nursingという科学史系の分野に広がった。これはケア労働の歴史でもある。

部屋温め換気して空気を新鮮に保ち、小掃除で居室を清潔にし、食べさせられなくても良いにおい、好きなにおいをかがせてやるなど心得を学んだ。清浄な空気はナイチンゲールの『看護覚え書』の第一原則だ。

 

お迎え現象というのは、人間だけでなく猫にもあるのだろうと直感した。

猫にも黒いお迎えの存在が来ていたような気がした。猫の姿をした死神かも?

老婆猫は夫猫に先立たれたが、後家楽日和の最後には夫猫がやってきて「待ってたよ」ってお迎えが来ているように体験したのか、夫猫を呼んでいるような啼き方をしているように儂にも聞こえた。

 

泡吹いて倒れた翌日には老婆猫は冷たくなっていた。

点滴も医療もなかったから、倒れてから程なく行った。

お通夜を明かし、儂が読経し、役所手続きの電話は淡々と済ませ、納棺を済ませ、出棺、骨は要らない、思い出だけでいい。一番元気の良い頃の写真だけ。

ふと、看取りの気枯れて消耗していく過程のほうが一番きつい夜明け前。

いつ死ぬのやら終わりが見えないどっちつかず状態が長引くと、遺された者たちが消耗する。サドンデスに対して受容のプロセスがあるようだ。初めは「まだ逝かないで」と思ってたのが、手を尽くして「もういいです」「もういいよね、気済んだっしょ」に変わるまでしばしの時間が必要だ。別れるときに「一緒に過ごせてよかったよ、ありがとね」と感謝に至れる関係性は幸いだ。落語『らくだ』のような迷惑な死の描写もあるのだから。

瀕死のメンバーを抱えているとベッドサイドを離れがたく、平常心を保つのも大変だし、通常の暮らしが回らなくなる。死=解放は、看取る側の視点もある概念。

大往生なら晴れ晴れとありがとうと感謝もするし、看取りを終えてひと段落してやっとぐっすり眠れた。

看取りを通じて様々な感情の色合いを帯びた「ありがとう」があるものだなと身をもって知った。

これからも、様々な「ありがとう」の色彩を観ることができるだろう。「感謝」をテーマにそういった言葉の綾の色とりどりを絵なり作品にするのもありかなって。

老婆猫をかわいがってた亡き人間の大婆様もお迎えに来てくれたんじゃないか、ヤマの世界でも寂しくなかろうなど家人は語り合った。

これもグリーフケアかな。

子どもは生まれにくく長生きでなかなか死ななくなった日本では、じっくり人間を看取る経験を積む人よりも、人間よりは寿命の短いペットを介護・看護・看取る経験をする人のほうが多いのではないかと予想している。

人間の死は見えないところに覆い隠される現代社会で、

ペットを通じて生老病死に直面するのだろうか。

ブリコルールの節約技法(書見台を買わずに済ます)

読み書きをする際、下を向く姿勢が良くないから。

小学生の国語の音読の授業のように、本は手で持って立てるように、と聞いて。

 

困ったな、ここんとこずっと腕を前に出したままにしとくと大儀なのだが。

ふと、音楽の授業で使った譜面台がちらついたら、大体の方程式は描けた。

イーゼルがある。カルトンもある。本は置ける。

開いたままにする押さえがあれば、書見台として使える。

 

当初は押さえるものとして、金具のようなものをイメージしながら、

いくつか店をはしごした。

店内を歩き回りながら考えが進む。

形状としてどういうものがありうるか?

図書館本を汚さない素材がいいな。

読みやすさでは透明な物のほうが便利そうだ。

そのような過程を経て何気なく入った100均で

透明なT型カードスタンドが目に入って、ピンと来た。

当初イメージしたものと違うけど、これのような気がする。

本のページを開いて、手を動かして配置を試してみた。

この見立てで、あたり。

 

だいたいの製品には、注意書きに、

本来の用途以外に使用しないでください、などの文言があるようだが、

空気とか意図は読めないんで、

誰か知らない人が決めた本来の用途とやらと、名付けでの表現なんて、知ーらんぺ。

秋の匂いからきゅーっとなるシーズン突入

野焼きの匂いなのか植物の匂いか不明だが、

なんとなくスモーキーな匂いがし始めた。

胸がきゅーっと疼く。

 

やがてキンモクセイの匂いが漂えば、

物狂おしく、ぐーるぐーるしつつも、ぽーっとしてしまう。

 

穂が出かけのススキを手折って花瓶に投げ込んでおくと、

日に日にぽしゃぽしゃに広がる。

 

梨、ぶどう、いちじく、やまぼうし、あけび、芋煮、干し柿ヤブツルアズキ

バターナッツカボチャのパンプキンスープ、蓮蒸し…

秋がめぐるたんびに己の中で深まっていくものを感じる。

味覚、嗅覚、直感とかセンスとか育むのに時間がかかる系統のもの。

 

手技療法分野も深めるきっかけを得られた感触。

足の裏にテープを貼っつけただけで、立つのもやっとで、ふらつく。

よちよち歩きの33歳。

足裏等のバランス感覚、センスゼロからの育成ゲー。

思うように動かせない肉体からの、脱出ゲー。

日々蓄積しているダメージに対し、

治癒系のシステムの修復が追いついてないんだろなあという勘。

回復魔法の第一歩はダメージの、入りを制す。