ド地味生活

検索に10年くらい人生費やしたシステムコンポーザー。厄年。隠居系でみよんみよんしてるが細々とやっていく。

リモート看取り

リモートワークの話題も年単位での実践の知見がたまってきていて、

ネタがないわけではないが、まだ言語化できないでいる。

 

ビデオ通話ができるコミュニケーションアプリが乱立していて、

どのアプリをダウンロードしてアカウントを作ったかも曖昧な記憶になり、

登録済みのメールアドレスもどれがどれやらわからなくなり、

パスワードも忘れて入れない死蔵アカウントは無数にあるだろう。

年賀状やアプリの通話などで現在有効な連絡先の同期もしつつ、旧交を温めつつして

新暦の年末年始はちょっとした機会だなあ~と、しみじみ。

GWやお盆、次の年末年始に向けてアカウントを見直しておこうと、

節分に向けてはアカウント状況の全出しから何から、

古くて使わない物は削除し、まだ使えそうなものは使いこなせるかのお試し期間を設ける。

 

冬の終わりは生き物の新旧交代の季節なのか、お葬式も多い。

実家の老猫が倒れてピクピクし続けて終末期を迎えた。

見た目とは裏腹にドスの効いた鳴き声の御婆猫で、孫猫も婆乳やって娘猫と共同で育てた女系家族の女王として君臨していた。エリザベスカラーはしなかったけど。

ビデオ通話で画面越しに最後の挨拶をした。

声をかけ画面の猫を撫でながら、人間の終末期のときと同じようなもんだと思った。

下顎呼吸の呼吸音、寝たきりで思うように動けなくなるなどの点が。

老婆の娘猫、孫娘猫たちは傍らでウロウロオロオロしていて、初めて目の当たりにする死にどうしていいかわからないようだ。

症状をスマホで検索したら動物のお医者さんに連れてって延命治療を受けさせましょう的なアドバイスがヒット。ペットのエンディングノートは特に書いてなかったけど、老衰だから延命治療は望まないという基本方針はままちゃんのときに固まった。

もはや生きて残される者たちが手を加えようとしてやれることは何もない。

もう少しで死にゆこうというものに対して、

ただ、楽になるように、楽にしてくれと、

この世で生きとし生ける限りあるものを超えた限りのないものに祈る。

所詮人の子の手ではどうにもできないものは神仏マターとして分業する。

 

人間の看取りのときに、近代看護以前の世界に思いを馳せた。

宗教色を帯びた看護のあり方という切り口で、臨終行儀のアイディアを検索した。

『看病用心鈔』『臨終之用意』『験者加持作法』など

看護の心得の書物があることを知り、看護史the history of nursingという科学史系の分野に広がった。これはケア労働の歴史でもある。

部屋温め換気して空気を新鮮に保ち、小掃除で居室を清潔にし、食べさせられなくても良いにおい、好きなにおいをかがせてやるなど心得を学んだ。清浄な空気はナイチンゲールの『看護覚え書』の第一原則だ。

 

お迎え現象というのは、人間だけでなく猫にもあるのだろうと直感した。

猫にも黒いお迎えの存在が来ていたような気がした。猫の姿をした死神かも?

老婆猫は夫猫に先立たれたが、後家楽日和の最後には夫猫がやってきて「待ってたよ」ってお迎えが来ているように体験したのか、夫猫を呼んでいるような啼き方をしているように儂にも聞こえた。

 

泡吹いて倒れた翌日には老婆猫は冷たくなっていた。

点滴も医療もなかったから、倒れてから程なく行った。

お通夜を明かし、儂が読経し、役所手続きの電話は淡々と済ませ、納棺を済ませ、出棺、骨は要らない、思い出だけでいい。一番元気の良い頃の写真だけ。

ふと、看取りの気枯れて消耗していく過程のほうが一番きつい夜明け前。

いつ死ぬのやら終わりが見えないどっちつかず状態が長引くと、遺された者たちが消耗する。サドンデスに対して受容のプロセスがあるようだ。初めは「まだ逝かないで」と思ってたのが、手を尽くして「もういいです」「もういいよね、気済んだっしょ」に変わるまでしばしの時間が必要だ。別れるときに「一緒に過ごせてよかったよ、ありがとね」と感謝に至れる関係性は幸いだ。落語『らくだ』のような迷惑な死の描写もあるのだから。

瀕死のメンバーを抱えているとベッドサイドを離れがたく、平常心を保つのも大変だし、通常の暮らしが回らなくなる。死=解放は、看取る側の視点もある概念。

大往生なら晴れ晴れとありがとうと感謝もするし、看取りを終えてひと段落してやっとぐっすり眠れた。

看取りを通じて様々な感情の色合いを帯びた「ありがとう」があるものだなと身をもって知った。

これからも、様々な「ありがとう」の色彩を観ることができるだろう。「感謝」をテーマにそういった言葉の綾の色とりどりを絵なり作品にするのもありかなって。

老婆猫をかわいがってた亡き人間の大婆様もお迎えに来てくれたんじゃないか、ヤマの世界でも寂しくなかろうなど家人は語り合った。

これもグリーフケアかな。

子どもは生まれにくく長生きでなかなか死ななくなった日本では、じっくり人間を看取る経験を積む人よりも、人間よりは寿命の短いペットを介護・看護・看取る経験をする人のほうが多いのではないかと予想している。

人間の死は見えないところに覆い隠される現代社会で、

ペットを通じて生老病死に直面するのだろうか。

ブリコルールの節約技法(書見台を買わずに済ます)

読み書きをする際、下を向く姿勢が良くないから。

小学生の国語の音読の授業のように、本は手で持って立てるように、と聞いて。

 

困ったな、ここんとこずっと腕を前に出したままにしとくと大儀なのだが。

ふと、音楽の授業で使った譜面台がちらついたら、大体の方程式は描けた。

イーゼルがある。カルトンもある。本は置ける。

開いたままにする押さえがあれば、書見台として使える。

 

当初は押さえるものとして、金具のようなものをイメージしながら、

いくつか店をはしごした。

店内を歩き回りながら考えが進む。

形状としてどういうものがありうるか?

図書館本を汚さない素材がいいな。

読みやすさでは透明な物のほうが便利そうだ。

そのような過程を経て何気なく入った100均で

透明なT型カードスタンドが目に入って、ピンと来た。

当初イメージしたものと違うけど、これのような気がする。

本のページを開いて、手を動かして配置を試してみた。

この見立てで、あたり。

 

だいたいの製品には、注意書きに、

本来の用途以外に使用しないでください、などの文言があるようだが、

空気とか意図は読めないんで、

誰か知らない人が決めた本来の用途とやらと、名付けでの表現なんて、知ーらんぺ。

秋の匂いからきゅーっとなるシーズン突入

野焼きの匂いなのか植物の匂いか不明だが、

なんとなくスモーキーな匂いがし始めた。

胸がきゅーっと疼く。

 

やがてキンモクセイの匂いが漂えば、

物狂おしく、ぐーるぐーるしつつも、ぽーっとしてしまう。

 

穂が出かけのススキを手折って花瓶に投げ込んでおくと、

日に日にぽしゃぽしゃに広がる。

 

梨、ぶどう、いちじく、やまぼうし、あけび、芋煮、干し柿ヤブツルアズキ

バターナッツカボチャのパンプキンスープ、蓮蒸し…

秋がめぐるたんびに己の中で深まっていくものを感じる。

味覚、嗅覚、直感とかセンスとか育むのに時間がかかる系統のもの。

 

手技療法分野も深めるきっかけを得られた感触。

足の裏にテープを貼っつけただけで、立つのもやっとで、ふらつく。

よちよち歩きの33歳。

足裏等のバランス感覚、センスゼロからの育成ゲー。

思うように動かせない肉体からの、脱出ゲー。

日々蓄積しているダメージに対し、

治癒系のシステムの修復が追いついてないんだろなあという勘。

回復魔法の第一歩はダメージの、入りを制す。

GWにひきこもりつつ思ったこと

GWに行ったところ。ヌカハウス。

行った理由。たけのこのあく抜き用でぬかを手に入れたかったから。

 

(一般就労に向かないだろうし、作業所や訓練施設に通うよりは、その時間と労力を、きっとこういう生活の知恵的なものを身につける方向に向けた方が余裕を作るには合うような直感がしたのが2011~2012年頃のこと。

「余裕つくろう」のキーワードがこぼれ出て、25歳から基本的生活スキルに全振りした。

昼夜逆転から朝に太陽礼拝ができるようになると、公共交通機関で里や山に移動できたり、回収時刻までに郵便ポストに投函できたりゴミ出しができたりするので、できることが増えるのだが難所である。)

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ヌカハウス。というネーミングセンス

タケノコを煮込んでいる時間、わらびのあく抜きをして漬け込んでいる時間など、

放置の時間で、

他の料理したり、掃除したり、片付けしたり、他のところに出かけたり。

線形計画法とか最適化問題として方程式立てて解くとかガントチャートみたいなグラフを書くということもせず、

ただ一日の必修科目を1~2個程度思い描いて、必修だけこなすのも味気ないから、選択科目で日常の枠から羽を伸ばす遊びというか楽しみを1つくらい入れて、必修が前倒しで終わったら、遊びの領域が増やせるよっていうインセンティブで動いている。

原型は、小学校の宿題が終わったら、おかぴーが用意したドリルを決まったページ数解いて、やることやったら、夕飯の時間までゲームやり放題。早く終わればプレイ時間が長く確保できるし、誤った回答をしたらゲームから引き戻されるので、速く正確にやるのがベストになる。

 

独身なり家族が近くにいないことは、家族に時間を取られないことを意味する。

この春から、子どもが親に振り回されないために親に向けて遠隔でトレーニングを施している。(これって親トレ?)習慣を少しずつでもできるところから置き換えていく。面倒見は悪い。

 

キャリアのVSOPがあるなら、読書のVSOPもあるのだろう。

キャリアと違って読書なら子どものうちから取り組んで読み進めることも可能だし、人生のある一時期にガーッと読み込んで進めることも、コンスタントに読みこなすこともありだろう。

読書も本を通しての出会いなので、対人関係にもVSOPはあるのかも。

バラエティに富んだ義務教育期間、進路志望が同類の学校生活や見習い生活とか…

 

星の時間、それも北辰の時間。北極星、妙見か北斗七星かもよくわからない。

若き日に見聞きし触れたものがその後の方向付けをするというのを鑑みると、

動かないけど燦然と輝いて道を照らす存在があるような気もしてくる。

スマホなしで旅をする

スマホなし。ガラケーはある。

SNSや各種メッセージアプリのチェックしないし、ネット検索も限られるし、

宿は寝床として睡眠確保が重要。

たくさん歩くからなるべく湯舟には浸かりたいので、

近くに銭湯とかあると行こうと思う方。

地図は現地の観光案内所でもらったマップ数枚と、

事前にプリントアウトしておいたが縮尺が微妙だったグーグルマップ。

 

連休も過ぎ去っての京都。

土地勘がなく、日も暮れてゲストハウスに向かって歩く。

二条駅から「二条城見当たらんのう」とか思いつつ、

御池通り歩いてたんだろうけど、神泉苑とか気づかず。

堀に気づいて、堀の周りを歩いて二条公園脇を通る途中、

夜のランナーを結構見かけた。

鵺大明神とやらに足を止め拝んだ。

付近に陰陽寮跡地とかあるの気づかない。

小さいお地蔵さんとかあるとついつい手を合わせてしまう。

平安宮一本御書所跡とか公園とか近辺フラフラ。

公園に公園の名前が書いてないような…

だんだんたどり着けるか不安になってくる。

それに輪をかけてチェックイン時刻が迫るし、

タイムプレッシャーで焦ると悪い方に転びやすい。

なんか見えるはずない浅葱色の平安ファッションの男性が歩いていた…

ような気がしたり、

落ち着いて見たら気づけそうな看板も見逃していたりしてたのかもしれない。

認知のステータス異常。

色々迷いながら、ふと弘法閣大師堂が目に入ったら、

スーッと涼風を感じて気を取り直して、

なんか見つけられそうな気がするって自信が湧いて、

こっちだろうって方向に行ったらすぐゲストハウスの看板を見つけた。

 

暑い日でも、あの日の光景を思い出すと、

ちょっと涼しくなる心の引き出しが増えた。

 

日々判断の連続。

キレのいい判断に自信がなくなったらエポケー、

涼風を求めてふら~っと、滝など見に行くかってコマンド生成。

GWと年末年始休みのdiffをとる

地元の広報や回覧は積極的に読むほう。

30分は読解に支払う。(お金のごとく、時間と注意資源を支払うという感覚)

今日とか明後日とか一部平日扱いで対応になる日があるっぽい。

 

図書館、美術館、博物館、体育施設が開館しているのが年末年始と異なるので、文化施設に足を運ぶというのもいいな、と思っている。

 

閉ざされた異空間で時間の結晶体と向き合う濃密な時間。

 

出向くかどうかは結局天気次第だが、

雨でも降っててダウナーなメンタルステートで、

ぐだぐだ長湯に浸かりながら次のアクションプランを思い描いたり、しなしなと片付けや道具の手入れをしたりするひとときも気分よく過ごせるものだな。