ド地味生活

滋味ある地の暮らしが精神を耕す

リモート看取り

リモートワーク(在宅勤務)の話題も年単位での実践の知見がたまってきていて、

ネタがないわけではないが、まだ言語化できないでいる。

 

ビデオ通話ができるコミュニケーションアプリが乱立していて、

どのアプリをダウンロードしてアカウントを作ったかも曖昧な記憶になり、

登録済みのメールアドレスもどれがどれやらわからなくなり、

パスワードも忘れて入れない死蔵アカウントは無数にあるだろう。

年賀状やアプリの通話などで現在有効な連絡先の同期もしつつ、旧交を温めつつして

新暦の年末年始はちょっとした機会だなあ~と、しみじみ。

GWやお盆、次の年末年始に向けてアカウントを見直しておこうと、

節分に向けてはアカウント状況の全出しから何から、

古くて使わない物は削除し、まだ使えそうなものは使いこなせるかのお試し期間を設ける。

 

冬の終わりは生き物の新旧交代の季節なのか、お葬式も多い。

実家の老猫が倒れてピクピクし続けて終末期を迎えた。

見た目とは裏腹にドスの効いた鳴き声の御婆猫で、孫猫も婆乳やって娘猫と共同で育てた女系家族の女王として君臨していた。エリザベスカラーはしなかったけど。

ビデオ通話で画面越しに最後の挨拶をした。

声をかけ画面の猫を撫でながら、人間の終末期のときと同じようなもんだと思った。

下顎呼吸の呼吸音、寝たきりで思うように動けなくなるなどの点が。

老婆の娘猫、孫娘猫たちは傍らでウロウロオロオロしていて、初めて目の当たりにする死にどうしていいかわからないようだ。

症状をスマホで検索したら動物のお医者さんに連れてって延命治療を受けさせましょう的なアドバイスがヒット。ペットのエンディングノートは特に書いてなかったけど、老衰だから延命治療は望まないという基本方針はままちゃんのときに固まった。

もはや生きて残される者たちが手を加えようとしてやれることは何もない。

もう少しで死にゆこうというものに対して、

ただ、楽になるように、楽にしてくれと、

この世で生きとし生ける限りあるものを超えた限りのないものに祈る。

所詮人の子の手ではどうにもできないものは神仏マターとして分業する。

 

人間の看取りのときに、近代看護以前の世界に思いを馳せた。

宗教色を帯びた看護のあり方という切り口で、臨終行儀のアイディアを検索した。

『看病用心鈔』『臨終之用意』『験者加持作法』など

看護の心得の書物があることを知り、看護史the history of nursingという科学史系の分野に広がった。これはケア労働の歴史でもある。

部屋温め換気して空気を新鮮に保ち、小掃除で居室を清潔にし、食べさせられなくても良いにおい、好きなにおいをかがせてやるなど心得を学んだ。清浄な空気はナイチンゲールの『看護覚え書』の第一原則だ。

 

お迎え現象というのは、人間だけでなく猫にもあるのだろうと直感した。

猫にも黒いお迎えの存在が来ていたような気がした。猫の姿をした死神かも?

老婆猫は夫猫に先立たれたが、後家楽日和の最後には夫猫がやってきて「待ってたよ」ってお迎えが来ているように体験したのか、夫猫を呼んでいるような啼き方をしているように儂にも聞こえた。

 

泡吹いて倒れた翌日には老婆猫は冷たくなっていた。

点滴も医療もなかったから、倒れてから程なくヤマに還った。

お通夜を明かし、儂が読経し、役所手続きの電話は淡々と済ませ、納棺を済ませ、出棺、骨は要らない、思い出だけでいい。一番元気の良い頃の写真だけ。

ふと、看取りの気枯れて消耗していく過程のほうが一番きつい夜明け前。

いつ死ぬのやら終わりが見えないどっちつかず状態が長引くと、遺された者たちが消耗する。サドンデスに対して時間がある分、受容のプロセスが堪能できるようだ。初めは「まだ逝かないで」と思ってたのが、手を尽くして「もういいです」「もういいよね、気済んだっしょ」に変わるまでしばしの時間が必要だ。別れるときに「一緒に過ごせてよかったよ、ありがとね」と感謝に至れる関係性は幸いだ。落語『らくだ』のような迷惑な死の描写もあるのだから。

瀕死のメンバーを抱えているとベッドサイドを離れがたく、平常心を保つのも大変だし、通常の暮らしが回らなくなる。死=解放は、看取る側の視点もある概念。

大往生なら晴れ晴れとありがとうと感謝もするし、看取りを終えてひと段落してやっとぐっすり眠れた。

看取りを通じて様々な感情の色合いを帯びた「ありがとう」があるものだなと身をもって知った。

これからも、様々な「ありがとう」の色彩を観ることができるだろう。「感謝」をテーマにそういった言葉の綾の色とりどりを絵なり作品にするのもありかなって。

老婆猫をかわいがってた亡き人間の大婆様もお迎えに来てくれたんじゃないか、ヤマの世界でも寂しくなかろうなど家人は語り合った。

これもグリーフケアかな。

子どもは生まれにくく長生きでなかなか死ななくなった日本では、じっくり人間を看取る経験を積む人よりも、人間よりは寿命の短いペットを介護・看護・看取る経験をする人のほうが多いのではないかと予想している。

人間の死は見えないところに覆い隠される現代社会で、

ペットを通じて生老病死に直面するのだろうか。

 

親の老い、夫の老い、自分の老いの三度を看る。

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