ド地味生活

滋味ある地の暮らしが精神を耕す

続・ひきこもり無双

それまで得てきた、頭で概念の積み木遊びをやる類の知識経験を一旦脇に置く。

仕切り直して、1から始める。

頭で考えるのを停止するから、胸や肚、腰、子宮、肌感覚で処理する。

蛮勇に陥らない気概、節度ある欲がどういうものか、身体にフィードバックが来る。

白か黒か、グレーゾーンか。頭で考えてたら白黒はっきりさせたがるし、無彩色のグラデーションの座標軸(x軸)でどの値か?みたいな理屈っぽさが、

良寛さんの書や西田幾多郎の書、掛け軸やふすま絵などの水墨画で色味を帯びた墨の色を知覚し、利休鼠など緑がかった灰色もあるのを目の当たりにし、仄かな香気漂う(たぶん、龍脳だろう)空間のしっとりと落ち着いた感じや風の流れ、明かり取りなど諸々がゆらゆら合わさって展開されるライフ・フィールドをまるこまんま全身で堪能する感覚に圧倒されるが、「ハロー、ワールド!」っていうより「唯今、東洋!」って感じだ。

目を瞑って、気を飛ばしてもいいし、やってこられてもいいし、その何モノかと対峙する。あるようでない、なさそうであるそのモノと、ここにいるようでいない、いないようでいてそこにある自分と。所を変え、時を変え、何度も何度も遭遇する。「やあ、また会ったね。見知らぬようじゃが、懐かしくもある」

やっておくべきは、思い出作り。

 

さて、国家的触穢にやあらむ、物忌みモード。

毒の名を五六七(忌むな)と、ふるべゆらゆらとふるべ。

さにあらば、「関ケ原」って呼ぼうぞ、と姉妹して語りき。

天下分け目なるゆえん。混乱のさなか、裏切り寝返りの兆し。

写経(書き写し型のインプット)もよきかな。

読経(音声でアウトプット)もよきかな。

法要(仏法のエッセンスのインスピレーション)もよきかな。

講会(原書講読のゆるい集まり、オンライン読書会含む)もよきかな。

詩歌管弦の遊び(インスピレーションが降臨しての変性意識状態)もよきかな。

村山修一の陰陽道のメモ書きを虫干しして、

清明に向けて心の準備をば。