ド地味生活

滋味ある地の暮らしが精神を耕す

無題

初めて座禅したときの21歳文学部3年生当時の記録を蔵出ししてみよう。

初めて座禅してきた - 大人の発達障害当事者のもがき

続・座禅ー初心者の視点 - 大人の発達障害当事者のもがき

 

初体験は仙台の北山エリア、曹洞宗の禅寺。

臨済宗永源寺はお泊りと法話で、座禅体験はやっていない。

 

小さい頃から一休さんの歌、

「世の中は起きて箱して寝て食って 後は死ぬるのを待つばかりなり」とか、

聞かされて育った。

父が受けた新人研修は座禅研修で相当インパクトがあったようでね。

「親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ」の逸話を父から聞いたかどうかは定かではないが、

逆縁に、

遭わば遭ったで、

そこまでの、

弾(たま・魂)だったって、

ことでしょうよ。

峻厳さが息づいている。

 

財にしろ、子宝にしろ、得る喜びがあればこそ、

失うことの不安と恐怖がついて回る。

そして、失われた悲しみは大きい。

法話を読めば、

子に先立たれて今まで死者を出したことのない家の芥子の実を求め、

彷徨い歩くまでもないだろう。

無論、読むまでもない程、察しの良すぎる子どももいるから年若いからと侮るなかれ。

 

受験は周りの目の色が変わる。

就活は嘘吐きの始まり。

婚活・縁談はますます強欲に拍車がかかる。

子の将来を質に入れ、子ゆえの闇に惑う。

子は先祖の無念と期待でプレッシャーかけられ代理代理代理…戦争を遂行し、

戦場に居続けたら無傷ではいられないから癈兵となる。

 

生きながらえているとグリーフ・ケアは必修科目になる。

喪失感には怒りや悲しみがついてくる。

失う苦しみも得る喜びも、

あればあったでついてくるややこしいものも、

それなりに知っている。

というか、

得た先のシナリオについていくつも枝分かれする樹形図が描けて、

どのルートを通る可能性が高いかまでだいたい読めてしまうとき、

そのレールを走り続けるようなやる気とやらみるみる委縮する。

わからないから飛び込もうって思う。そっちの方がワクワク感がある。

得る喜びが得られなくても、煩わされることがなくて、

心が平安である方を大事にして、

浮いたエネルギーと時間を大事にしたいと思えるものに投下したい気分になる。

あとは死ぬだけプランは身軽。森田療法のライフプラン版。

 

生き物としては、もうこの身は破滅だ、この人生は詰むのが見えたと思えば、

新しい生に賭けるのは自然なことね。

未来に賭ける大人たちは、小さい生まれたての赤ん坊や子供たちにばかりかまけて、

自分の心身はおろそかにする。小さき子らが傷つかないようにと眼を向ける。

 

既に産んじゃって/生まれちゃって、今も生きている人々には儂はこう思っちゃうね。

あーあ、残念でしたあ。

よくもまあ、こんな苦しい世界に生まれちゃったもんだね。

生き続けたら苦しいこと、たーくさんあるよ。

働けないと死にたい、消えたいが近すぎてね。追い詰められるよ。

今生まれたばかりの赤子ら、小さい子らもいずれはボロボロになるのが目に見えるよ。

生きている以上、ぼーっと過ごしていようが何かしていようが寿命が尽きて死ぬから。

そういう苦しみを踏まえた上で、こう行動するよ。

新しい命の方より、今生きている、かつての子どもたちの方に駆け寄っていってね、

今まで苦しんでたのも喜びも全部ハグして、苦しみの針を抜いてね、

一緒に楽しいこと、嬉しいこと、楽ちんを与えよう。

 

ある晩、死神が枕元にやってきて、「連れてく?」って聞かれた。

安楽死を検索しちゃうくらいには

「早くお迎えが来ないかしら」って思っているところがあるけど、こう答えた。

「せめて、ボロボロに傷ついたかつての子どものおそばにいさせてください。

この子をもうしばらくみていたいから。」

慈しみの眼差しで、自分に縁あるものたちに施無畏をやる。

生まれなかった、というかそもそも存在すらしなかった命に気づき、供養する。

 

本来何を求めていたのか、目先の欲得の感情に覆われて、

見えなくなっていって見失うことがある。老い、病、死を直視して立ち返るのだ。

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